月下の花#よざくらのあと





灯火の消えた部屋の前に一人佇む
部屋の主は留守なのか就寝中なのかは分からないが、目的の人物が居ない事は確かだ
小さく息を吐いたへ、声が掛けられた

「土方君なら酔いつぶれて寝ていますよ」

気配に気付けなかった
驚いたは髪を揺らして声の主へ振り返る
闇に染まった廊下に立つ山南敬助は、珍しく穏やかな瞳でを見下ろしていた

「何か用件があるのなら、明日にした方が良いでしょう」

「はい……あ、いえ、お会いしたかったのは山南総長です」

「私に?」

意外そうな表情へ頷く
自室に居ない山南が土方の部屋にいるのでないかと見当を付け
土方の部屋までやって来た事を簡単に説明すると
意外そうな表情は不思議そうなそれに変わった

「私に、何の用ですか?」

「あの」

右手で握りしめていた一輪の花を山南の顔の前に差し出す
小さな一輪の花
それは斎藤達に連れられ行った満開の桜の木の下で拾った桜の花だった

「これは……桜、ですか?」

「実は先程斎藤組長と沖田組長に夜のお花見に連れて行って頂きました。それで、これは、そのお土産です」

空を隠す程の満開の桜
とても綺麗だった。だから、山南にも見せたかった
だからと言って、枝を折るのは躊躇われたので、ささやかに一輪だけ

「と、言っても一輪だけなんですが」

「一輪だけの桜程侘しいものはありませんね」

素直な物言いに苦笑する
山南の言う通り、たった一輪の桜の花に美しさや感動を覚える事は流石に出来ない
八重咲の桜ならともかく、一重の桜は味気ない
少しでも山南に喜んでもらいたかったなどと暢気に考えていた自分自身が
急に恥ずかしくなり、花を持つ手を下げた

「そ、そうですよね。たった一輪では感動出来ませんよね」

「いいえ、私はたとえ満開の桜を目の前にしても、それを美しいと感じる心など失っているのかもしれません」

そんな事はない。
が否定の言葉を紡ぐより早く山南が口を開く

「ですが……」

の手を引き寄せ、花を取り上げる
その花をそっとの髪に挿した山南は柔らかく微笑んだ

「こうすれば、美しい光景として私の中にもその花の記憶が残るでしょう」

返す言葉を探しきれず、口をぽかんと開けたまま立つにもう一度微笑みかけると
山南は背を向けると、静かに歩き出す

「美しい思い出を、ありがとうございます。君」

春の夜風に乗って、そんな言葉が聞こえた気がした
山南の背を見送りながら、髪に手を伸ばす
かろうじて挿さっていただけの花は
の指が当たると髪から滑って、音も無く床へ落ちた

喜んでもらえたのだろうか
答えは出なかったが、久しぶりに見た悪意のない山南の微笑みは
春の風に似た暖かさで、の心に沁み込んだ





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月下の花#よざくらの後日談でした。
夜のお花見のおすそ分けで、山南さんに桜の花を一輪お土産にするという話です。
桜の花って、たくさん咲いてると綺麗だけど、一輪だけだと本当に素朴ですよね

土方さんが酔いつぶれていたのはもちろん
昼間の花見で、しこたま呑まされたからです