対岸の彼#4
月が笑っている
何も知らないように夜を優しく照らす月にさえ八つ当たりをしたい気分だった
けれど、一体何が悲しいのだろう?それは、自身にもよく分からない
騙しおおせていたと思っていた相手に、実は踊らされていたからだろうか
それとも、もっと単純に、もう二度と永倉と会えないからだろうか
いや、もし会えたとしてももう、笑いかけてもらえない。名前を呼んでもらえない
「……新さん」
そう呼ぶと、永倉はいつも照れたように笑っていた
もう、あの笑顔を見ることもない
「そんなの、いやだ」
嫌がった所で、どうにもならない事は分かっている
と永倉は敵同士になってしまった……いや、初めから敵だった
騙すつもりだった
騙していたつもりだった
でも、傍にいて楽しいと思うのは本当だった
永倉に向けた笑顔は本物だった
本気で、好きだった
「好き……?」
そうか。と、ようやくは自分の本心を知る
騙すべき相手に、本気で恋していた
自分の愚かさに呆れる。けれど気付いてしまった気持ちを抑える事は出来ない
会いたい。
は立ち上がった
気持ちを行動に移す事がどれだけ命取りかは分かっている
会えば、殺されるかもしれない
捕まって、死ぬまで拷問を受けるかもしれない
死にたくない
でも、会いたい
は襖を開けずに、窓の傍へ向かった
襖の向こう、部屋の外には不知火が居る
どうやら、が部屋を出て行かないよう見張っているらしい
今回の件で不知火は相当怒っていた。それはを心配しているからこそだと理解しているが
それでも、は自分の心に従った
窓枠を跨ぎ、あまどいを伝って降りる
地に足が着くと、白い足袋が汚れるのも構わず、は夜道を走った
月が笑っている
そんな皮肉を言いたくなる程、今日の月は一段と無垢に輝いている
間違った事はしていない
なのに、永倉の胸中には後悔にも似た苦味が広がっていた
初めから、という女がどこかの間者である事を疑っていた
ある程度泳がせて、確信が掴めたら捕えるつもりだった
それを、実行に移しただけだ
間違ってない。なのに
「くそっ」
力任せに木刀を振り下ろす
部屋でじっとしている事が出来ず、壬生寺の境内で一人
稽古に励んでいるが、どうにも集中できない
脳裏にの顔ばかりちらつく
は、間者としてはまるで素人だった
嘘が下手で、自分の事を話す時は作り笑顔で作り話をしていた
けれど、永倉の話を聞く時は本当に楽しそうに笑っていた
騙されていると分かっていても
それを逆手に取ってを騙していたとしても
が隣に居て、柔らかい瞳で見上げてくれるのが嬉しかったのは本心だ
けれど、に想いを寄せてしまえばそれは新選組への裏切りに等しい
仲間を裏切る前に、手遅れになる前に決着を付けなければいけなかった
「……仕方、なかったんだよ!」
心のもやを吐き出すように呟いた時
背後で微かな足音がした
「誰だ!」
素早く身を翻す
月明かりの下、振り返った先には……が居た
怯えたように体を硬くしたが立っている
馬鹿じゃないかと叫びたくなった
わざわざ捕まりに来たようなものだ
はある程度の距離は保っているものの、永倉が本気を出せばすぐにでも捕えられる
大声で騒げば、屯所から仲間もやってくるだろう
そうすれば、今度こその命は無い
「な……に、やってんだ。こんな所で」
苦々しい思いで問いかけると、は一旦俯いて
意を決したように顔を上げた
なにかを決意した瞳は、まっすぐに永倉へ向けられている
「ずっと騙してたなんて、酷い」
その一言に、呆れた
「あのなあ……それはお互い様だろ?そもそも先に騙してたのはそっちじゃないか」
脱力して答えると、は言葉に詰まる
騙していたのはお互い様なのに、わざわざ批難する為にここへ来たのか
の迂闊な行動に腹さえ立って来る
「だいたいこんな所にのこのこ来るなんてどうかしてるぜ。そんなに死にたいのか?」
「し、死にたくない!」
涙の滲む声で、が小さく叫ぶ
「でも、でも、新さんに伝えたい事があったから……死にたくないけど……会いたかったから」
会いたかった。永倉の胸がずきりと痛む
何故会いたかったのかと問うのは、流石に野暮だと分かっている
「私、生まれとか家の事とか、名前以外私の事は全部嘘だった……でも、新さんといて楽しかったのは本当。新さんを素敵だって言ったのも本当……」
「……」
「新さんは?……全部、嘘?」
全部嘘だったと言ってしまえば、きっと楽になれる
だが、嘘を付くのは嫌だった
永倉は僅かの間迷った末、正直に答えた
「いや……騙された振りをしていた事以外は、全部本当だ」
良かった。と、夜の闇の中でもが微笑んだのが分かった
「あのね、新さんが私の事可愛いって言ってくれて、嬉しかったから……」
微笑むの瞳から、涙が零れ落ちる
は慌てて手の甲で涙を拭い、一歩後退した
「今まで、騙しててごめんなさい」
柔らかい声でそう告げたがきびすを返す
駆け出そうとする背中に、思わず声をぶつける
「ま、待ってくれ!」
びくりと震えた背中。永倉の言葉を素直に聞き入れ
立ち止まったは呆れる程無防備だと思う
一歩一歩、距離を確かめるようにへ近付く
大人しく待つに触れられる距離まで辿り着くと
永倉は背後から小さな体を抱きしめた
「ちゃん。あんた……馬鹿だろ」
このまま屯所に連れ帰る事も出来る
このまま斬り殺す事だって出来る
なのに、は永倉の腕の中で身じろぎ一つしない
ただ、拗ねたように反論する
「馬鹿じゃない……」
「馬鹿だ」
馬鹿で迂闊で無防備で。嘘を付いて他人を騙す事が下手な少女
だから、間者だと分かっていても……好きだった
もうとっくの昔に手遅れになっていたのだと認めた永倉は
を抱く手に力を込めた
end
新八さん連載もようやくラストです。
お付き合いいただいてありがとうございます!
敵同士の恋ですが、他の人と違ってこの二人は将来的にハッピーエンドを迎えそうな気がします。多分新八さん効果。
カッコイイ新八さんを目指したのですが、格好良く書こうとすればするほど
本編の新八さんとかけ離れていく……
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