月下の花#5
『あ、あの……!何かお手伝いできる事はありますか?』
ぎこちなく片手一本で書物を捲る姿に、たまらず声を掛けていた
山南総長ははたきを握りしめたあたしへ振り返り、ゆったりと笑う
『いいえ。手伝いはいりませんので、君は君の仕事をして下さい』
それだけ告げると、総長は再び書物に視線を戻した
『で、でも……』
『君』
静かな声であたしの言葉は遮られる
総長の視線は書物に注がれたまま
『過度な気遣いはかえって相手を不快にさせてしまう、という事を知った方が良いですよ』
……分かっている
あたしの同情や気遣いがどれだけ総長を不愉快にさせているか
けれど、綱道氏が残した変若水に関する研究書を
不自由な左腕を庇いながら一心に読む姿は、あたしを酷く不安にさせた
はぁ、と思わず大きなため息が漏れる
総長との距離感を計りかねているあたしは、ここ最近ため息ばかりついている気がする
幹部の方達は普通に接しているらしい
いや、そうするべきなんだろうけれど……うまく行かない
あの不自由な左手では、刀を満足に振るう事は出来ない
刀を振るいたくても振るえないもどかしさと悔しさ
少し理由は違うけれど、あたしだってかつては味わった思いだ
だから、あたしに出来る事がある筈だと……思いたいんだけど
そう気負えば気負う程空回りして、不愉快にさせているのが分かる
はぁ、ともう一度大きなため息を吐き出し
すっかり行き慣れた、千鶴ちゃんの部屋へ続く廊下を歩いていた時
廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった
「……ん?」
どたどたと足音をさせながら、走る数人の気配
と、曲がり角から突如一匹の猫が飛び出してきた!
「え!?」
猫は俊敏な動きで、飛び上がると
驚くあたしの胸へ放物線を描いて飛び込んで来た
反射的に猫を抱きとめる
「ちゃん!そのまま!」
「動くな!」
どたどたという足音と同時に厳しく叫ばれた
見れば、沖田組長と斎藤組長と山崎さんがこちらを目がけて
駆けて来る
「君!その猫を離さないでくれ!」
普段冷静な山崎さんにも叫ばれ、体がすくむ
というか、沖田組長や斎藤組長のこんなに焦った様子を見るのも初めてで
なんか……怖い!
条件反射で逃げようとしたけれど、咄嗟の事態に足が対応してくれず
思わず腕に力を込めると、驚いた猫が暴れだし
そうこうしている内に、あたし諸共猫を捕獲しようと
沖田組長と斎藤組長が飛びかかって来た――
「ごめんごめん。でもさ、もっとしっかり猫を捕まえててもらわないと困るよ」
「す……すみません」
沖田組長に咎められ、あたしは小さくなって謝る
一応、あたしは被害者だとは言えなかった
二人に飛びかかられたあたしは、二人の下敷きになった状態で引き倒され
猫は寸での所であたしの腕から逃れ、何処かに逃げ去ってしまった
千鶴ちゃんだけが気遣わしげに、頭にこぶが無いか確認してくれる
流石は綱道氏の娘だ。その千鶴ちゃんが、特にこぶや気になる傷は無いと言ってくれたので、ひとまずあたしは安心した
「いや、が謝る必要はない。あれは総司が悪い」
「へぇ。一君、それどういう意味かな」
沖田組長……笑ってるけど、目が笑っていない
見れば、隣の千鶴ちゃんは顔を引き攣らせていた
きっと、あたしも似たような表情なんだろう
他の幹部の方達は、二人のやりとりを気にする風でもなく
先程の猫について、作戦会議を開いている
どうやらあの猫は、屯所に迷い込み勝手場を荒らした挙げ句
幹部の方々から巧みに逃げ回っているらしい
「あんたまで飛びかかる必要は無かったという事だ」
斎藤組長は厳しい目と冷ややかな口調で告げる
しばらく考える素振りを見せていた沖田組長が、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた
「……ああ、そういう事。要は猫を理由にちゃんを押し倒すつもりが、僕が割り込んだから上手くいかなくて、それで怒ってるんだね」
「なっ……!」
斎藤組長が絶句する
そして揺らいだ瞳であたしをみると、しどろもどろの口を開いた
「ご、誤解だ。俺は決してそんな邪な考えは抱いていない……!」
「わ、分かってます!沖田組長、そういう冗談はやめて下さいっ」
「はいはい」
全く悪びれない様子に、心の中でため息をついた
……あれは押し倒された、なんて生易しいものじゃない
押し潰されたんだ。本気で生命の危機だった
「なぁーいい加減言い争いはやめて、あの猫早くなんとかしようぜ」
呆れた声。
藤堂組長が声と同様の呆れた視線であたし達を見ていた
藤堂組長の言い分は尤もで、沖田組長も斎藤組長も反論しなかった
場が落ち着いた所で、ようやく全員での作戦会議が開かれた
作戦で決められた役割は大きく三つ
猫を追い、捕獲する。
台無しになった昼食を作り直す。
そして、広間で会議をしている副長達の元へ行き誤摩化す……
そこまで話がまとまると、沖田組長が静かに立上がった
何故か、あたしの手を持って
「じゃあ僕と一君と、それからちゃんは猫を追うよ」
「あ、あたしも捕獲係ですか?」
「何、不満?」
「あ、いいえ……是非ご一緒させて下さい」
という訳で、役割分担はあっさり進み
昼食の作り直しは原田組長と永倉組長
副長達への誤摩化しは、藤堂組長と千鶴ちゃんに決まった
「……さて、じゃ、ちゃん宜しく」
「うむ。これはが適任だ」
「……」
あたし達は今、揃って屋根を仰いでいた
例の猫を追いかけた末
ついに屋根まで追いつめた……というか、まんまと屋根に逃げられたという方が正しい
「ほら、もたもたしてるとまた逃げられちゃうよ」
「は、はい!」
沖田組長に背を押され、あたしは慌てて目の前の木によじ登る
早くしなければ、また猫を逃がしてしまう
それに、ついさき程から何だか辺りが騒がしくなっている
あたしの姿を平隊士に見られれば厄介だ
早く、けれど慎重に
木から屋根に飛び移ったあたしはじりじりと猫を追いつめ――
ついに捕獲に成功した
下に居る沖田組長と斎藤組長に、猫を掲げてみせる
「やりました!」
「流石ちゃん」
「でかしたぞ、」
「おっと、君に一歩先を越されてしまったか!」
「……え?」
屋根の下からあたしを見上げていたのは
沖田組長、斎藤組長と……局長!?
「え、え?きょ、きょくちょ――きゃ!」
いつの間にか増えていた局長に動揺したあたしは
足を滑らせ、猫を抱えたまま
受け身をとる暇もなく屋根から落下し――
何かが背に触れたけれど、それは予期していた地面ではなく
「ふう、危機一髪!といった所かな」
快活な声が間近で聞こえ、あたしは咄嗟に閉じていた目を開ける
驚く程近くに局長の顔があり、あたしは局長の腕に抱きとめられた事を知った
「あ……あわわ!申し訳ありません局長!」
「ん?」
「お怪我はありませんか?」
「はは、それを心配するのは俺の方だ。怪我は無かったかな?君」
あたしを受け止めて、怪我をしたら一大事だ
慌てるあたしをそっと地面に下ろした局長は腕を振って、どこも痛んでない事を示してくれた
「は、はい。局長のお陰であたしも無傷です」
「それは良かった!いや、それにしても君は意外とおてんばだなあ」
「ですよね。率先して屋根に登っていくから、僕達も心配してたんです」
あまりにも沖田組長が爽やかに言ったから
あたしは反論する声を飲み込んでしまった
「近藤さん、ここに居たのか」
「おお、トシに山南君!猫ならほら、この通り」
やってきた副長と総長に、よく見えるよう
あたしの肩を掴んで二人の前に押し出した
副長は腕の中の猫を見て、次にあたしの顔を哀れむような瞳で見た
「なんだ……も巻き込まれてたのか」
あたしの心中を察してくれているような
同情的な様子に、少し救われる
「お手柄でしたね、君」
副長の隣で、総長が柔らかく笑っていた
総長のそんな表情は本当に久しぶりで……大げさだけど、涙が出る程嬉しかった
「はい!やりました!」
素直に出た笑顔で応えると
総長は柔らかい笑みを崩さず、あたしの顔をじっと見つめた
「あ、あの……総長?」
「久々に君の笑顔を見た気がします」
「……え?」
そうだっただろうか?
考えてみれば、総長と接する時はいつも不安だったから
それが顔に出ていたのかもしれない
「綺麗なものを見てこそ傷は癒えるものです」
優しくあたしを見下ろしながら、総長は静かに続ける
「私の事を気遣ってくれるならば、その笑顔を忘れないで下さい」
笑顔を、忘れない
きっと、それがあたしに出来る唯一の事だから
あたしは笑顔で頷いて、猫を抱く手に力を込めた
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随想録、事件想起1より。でした
近藤さん達との大捕り物のエピソードが微妙に元です。
沖田さん&斎藤さんに押し倒され
局長にキャッチされるって、なんかおいしい