ノワール#14





慶応四年――

ついに蝦夷行きを決意した新選組は、誰もが準備に慌ただしく駆け回っていた
もちろん土方も例外ではなく、本来ならば部下に指示を出し率先して出立の準備をしな ければならない
だが、土方には先に済ませなければいけない事があった

「千鶴」

野営のあと始末をしていた千鶴を見つけ出し、声を掛ける
振り返った千鶴の顔には、隠しきれない疲れが滲んでいる

あの時、達の元に返すべきだったのかもしれない
そうすれば、こんな苦労を掛けずに済んだ
だが、が千鶴を託したから
千鶴もそれを望んだから……違う、土方自身が望んだからだ
千鶴が側にいれば、かろうじてと繋がっていられる
たった一本の糸を断ち切る事が出来なかった、土方自身のに対する未練のせいだ
今ならば、そんな自分の本心を素直に認める事が出来た
そして、新選組と共にありたいという千鶴の気持ちを利用した事に今更ながら気づいた

「話がある」

不思議そうに土方を見る千鶴をまっすぐに見つめる
もう、潮時なのだ
これ以上巻き込むわけにはいかない。千鶴はの元に帰り、幸せにならなければなら ない

土方は一度目を閉じ、の顔を思い浮かべた
記憶の中のは不機嫌そうに険しい瞳で土方を睨みつけている
仕方がない。土方の知っているはいつも仏頂面だった
薫や千鶴にするように、柔らかく笑いかけられた事などない

千鶴が帰れば、は喜ぶだろうか?もちろん、喜ぶ筈だ
だが、同時に怒るだろう
千鶴を守り抜くという約束を違えたのだから、当然なのかもしれない
何故か、笑みがこぼれた。頭がおかしくなったのかと、目の前の千鶴は不安そうに眉を 寄せている
大丈夫だ心配ないと、あまり説得力のない口調で言いながら、土方は僅かの間黙り込ん だ後再び口を開き
と繋がる、最後の絆を手放した





故郷は惨劇の爪痕が深々と残っていた
それでも、薫と少しずつ立て直しなんとか二人が住める位には再生した我が家
人里離れたこの場所は静かで、動乱の声も届かない

やはり故郷に帰ったのは正解だった
薫も故郷の景色と匂いに平穏を取り戻したように見える
なにより、自身もようやく心を落ち着ける事が出来た

山から資材を調達して、生活の為の道具を作り
畑を耕す自給自足の生活
料理の方は、何故か薫はが勝手場に立つ事を許してくれず、力仕事専門になっているのが少々不満だが
大きな事件と言えば、先の大雨で派手な雨漏りがあり、家屋にいながらずぶ濡れになっ た事位で
それすらも、二人で笑い合えた
つまり、満たされている

……筈。なのだが、心の中にある空洞はなんなのだろうか
理由のひとつは分かっている。千鶴が居ないせいだ
千鶴は残る事を選んだ。そしては薫と千鶴の両方を守りきる自信がなかった
薫も千鶴が居ない寂しさは感じているだろう
だが、互いに気を使っているのか極力千鶴の話題は避けていた

空洞のもうひとつの理由……これも本当は分かっている

「姉様!お茶が入ったよ」

縁側から薫が呼んでいる
鍬を持ったまま、思考に沈んでいたは我に返り
笑顔と共に、薫へと振り返った

「ああ、今行く」

薫と茶の待つ縁側へ一歩踏み出す
その時、畑の向こうの木々の奥から何者かの気配がした

「……?」

と薫がここへ来てから、訪ねてくる者は皆無だった
殺気は感じない
だが、木々に閉ざされたこの地へやってくるという事自体がすでに怪しい

「姉様、どうしたの?」

突然木々の奥を注視したを不思議に思ったらしい薫が声を発する

「薫、お前はそこでじってしていろ……そこに居るのは誰だ!?」

鍬を構え、踏みならされる落葉に耳を済ます
やがて姿を現した二人の人物をみとめたは、危うく鍬を取り落としそうになった

「やれやれ、少しは清らかな空気に浄化されたかと思っていたが、貴様は相変わらずの ようだな」

二人の内、先を歩いていた者が呆れたように口を開いた
怪しい人物と言えば確かに怪しく、にとってはまさに招かれざる客だった
だが、後ろを歩くもう一人は……何故ここに居るのか

「風間……何故、お前と千鶴が共に居る?」

「千鶴!?」

薫が転がるように縁側から駆けてくる
は警戒を解かず、二人に対峙した
険しいの視線を気にする風もなく、風間は余裕の笑みを口元に浮かべた

「せっかく妹を安全に届けてやったというのに、その態度はなんだ?」

「……届けて欲しいと頼んだ覚えはないが?何故千鶴を新選組から引き離した」

「俺の意志ではない。土方がこやつを手放したのだ」

「なんだと?」

一層険しくした瞳で風間を睨みつける
俄かには信じられない言葉だった

「風間さんの言っている事は本当です……」

消え入りそうな声で、千鶴が呟く
疲労と悲しみで肩を落とす千鶴は誰の目から見ても痛々しい

「……どういう事だ」

柔らかい口調を心掛けながら、が問う

「話を聞きたければ居間にでも案内しろ。流石に、疲れている」

偉そう態度は気に入らないが、千鶴だけでなく風間も疲れを見せている
と薫は黙って二人を案内した


「これ以上は巻き込めないと……土方さんははっきり仰いました」

暗い声で千鶴は向かいに座ると薫に経緯を説明した
千鶴の膝元には一振りの刀が置かれている。そしてその横には、薫の淹れた茶が置かれ ていた

千鶴の説明をまとめれば、蝦夷行きが決定した土方は、激しい戦になることを予想し て、千鶴をの元へ返す決意をした
そこへたまたま風間が居合わせ、千鶴を無事に送り届ける事を約束したらしい
新選組に関わるなと忠告した筈だと言うの怒りを、おかけで千鶴が道中危険な目に 遭わなくて済んだのだと風間は返した

「それで……土方さんから姉様へ、これを渡すようにと頼まれました」

千鶴は懐から一冊の本を取り出すと、膝元に置いていた刀と共にへ差し出した
無言で受け取る。本を捲ると、繊細な文字で句が綴られていた
次に、刀を手に取る。鞘も鍔も繊細な意匠が施されている
それは、土方の愛刀だった

「刀は……武士の命です。きっと土方さんは魂だけでも、姉様の傍にあることを望んだ んだと思います……だから」

一旦言葉を区切り、千鶴は今にも泣きそうに顔を歪めた

「土方さんは……死ぬつもりかもしれません……」





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千鶴がとてもかわいそうな回になってしまいました……。

ようやく後編(?)の開始です。