ノワール#4





夢なのか、現なのか分からない一つの景色が
時々頭をよぎる事があった
それは、ぼんやりと空を眺めた時だったり、眠りにつく直前だったり
千鶴の意思とは関係なく浮かび上がる、柔らかな景色

「……ふぅ」

廊下の拭き掃除を終え、千鶴は額に浮き出た汗を拭った
懸命に磨いた床は顔が映る程に輝いている

ここまで綺麗に磨かなくても良いのかもしれない
その内、稽古や巡回で汗だくになった隊士達に汚されてしまう
それに、近々ここを出て行かなければならないのだ
けれど、今の千鶴は何かに打ち込む事で必死に冷静を保っていた

姉と名乗る女が現れてから数日が経つ
”について千鶴に問う者は居なかった
土方や近藤でさえ、あの夜以降の話を口に出さない
気を遣われているのは確かで、その優しさに感謝すべきなのに
千鶴は余計に息苦しさを覚えた

だが、問われた所で、千鶴に答える事は出来ない
が誰であるのか……千鶴自身にも分からない
姉であるというの言葉を疑っているわけではないが
確証が持てないのだ

「……」

頭を振って思いに沈んだ気持ちを切り替えようとするが 全く効果がない
重い心を引きずるように立上がった千鶴に
屯所では聞き慣れない女の声が掛かった

「精が出るな」

「……あ」

顔を上げた千鶴に微笑みながら、が庭に立っていた
思わずの手元に注意を払ったが、今日は刀を持っていない

「……さん」

「“さん”か」

が悲しげに目を伏せる
陽の下に立つはあの晩のような凶悪さは無く
何故か千鶴は、自分が大変な失言をしてしまったような罪悪感に駆られた

「あ……すみません」

「いや、気にするな」

穏やかな声に、千鶴はますます申し訳なく思う
それを察したらしいが、一歩千鶴へ歩み寄る

「だから、気にするなと言っている。ゆっくり思い出せばいいのだから」

「そいつは難しいと思うぜ」

二人きりの空間に割り込むような声だった
廊下の角から姿を現した人物に、千鶴は安堵したような戸惑うような複雑な感情を覚えた
で、邪魔者が現れたと言いたそうな表情を隠しもしない

「無粋な男だな。姉妹の語らいを邪魔して楽しいか?」

の嫌味に、土方は露骨に嫌な顔をした

「生憎だが俺はあんたを信用してねぇ。危なっかしくて二人きりになんてできるか」

「そうか、なら勝手に疑っていろ。お前が信用しようがしまいが事実は変わらん」

「っくそ。口の達者な女だぜ」

「口だけじゃなく、腕にも自信があるという事をお前はもう忘れたのか?」

このまま放っておけば、話はどんどん不穏な方向へ進んで行きそうだった
事実、土方は眉間に皺を寄せ、今にもへ斬り掛かりそうな苛立を見せている
傍で見ている千鶴は気が気ではない

「あ、あの……!」

必死で声をあげれば、二人分の鋭い視線が千鶴を射た

「え、えっと、その……」

結局、掛ける言葉が思いつかず、もごもごと口を動かすしかない千鶴だったが
一瞬でも気を逸らされた土方は小さく息をつき、なんとか冷静を取り戻したようだった

「……で、今日は何しに来た?」

「前に言っただろう?“また来る”と。その言葉通り来たまでだ」

だが。と続け、今度はが息をつく
残念そうな表情に、千鶴は続く言葉を容易に予想できた

「昔の事も、私の事もまだ思い出せていないようだからな……また日を改めよう」

予想通りの言葉を紡いだが、千鶴に微笑み背を向ける
その時、ふいにあの景色が甦った

夢なのか現なのか分からない、ひとつの景色

見上げても尚先が見えない
大きな木 太い木の枝には少女の姿
少女の手には、何か果実が握られていて
千鶴に向かって手を振っている

何故かその少女とがひとつに重なった

「あの……さん!」

気がつくと、呼び止めていた
意外そうな表情で振り向いたへ、千鶴は怖々と声をかけた

「私、あの……時々、ある景色が甦るんです」

「ある景色?」

「大きな木の上に、女の子がいるんです。それで、その子は私に手を振っていて、手には何かを持っていて」

「……」

は押し黙ったまま、言葉を発しない
土方は、そんなと千鶴を交互に窺っていた

「それが夢なのか現実の事だったのかずっと分かりませんでした。でも、あれが昔の記憶だったとしたら――」

話している内に、もやが晴れていくような感覚だった
やや経ってから、よくやくが口を開く
途切れ途切れで、絞り出したような声だった

「そうだ……それは、私だ」

やっぱり。と千鶴は胸の中で呟く

「庭にあった柿の木に実が成っていてな、お前が取って欲しいとせがむから取ってやった」

「私の為に……?」

「ああ。……その事を、お前は覚えてくれていたんだな」

微笑んでいるような 泣いているような そのどちらもが入り交じった表情に、千鶴は確信した

「――姉様」

理屈ではなく、心が言わせた言葉だった

驚くに微笑みたかったが
かろうじて出来たのは、まっすぐにを見つめる事だけだった
胸に広がる喜びは、まだ千鶴には重過ぎて





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今回は千鶴視点です。
ようやく家族の問題が解決したようです。