緋牡丹想々#6
早朝の道場
静かに座していた斎藤は瞼を開き、先ほどから自分を見つめる視線の主へようや
く振り返った
「何か用か?総司」
「ううん。朝から頑張ってるなぁと思って」
道場の入り口に背を預け、沖田はのんびりと笑う
「別に、ただの日課だ。頑張ってやっているものではない」
「はは、一君らしいね」
誉めているのか、そうでないのか
沖田の表情は難しくて読めない
それよりも、そんな事を言う為に沖田はここに来たのだろうか?と斎藤は首を傾
げた
「ねぇ、今日も監視のお仕事に行くの?」
斎藤の疑問など素知らぬ態度で、沖田が問う
どうやら本題はこれだったらしい
「いや、次は十日後だ」
「ふーん、大変だね」
大変、といえば大変なのか
確かに、不逞浪士の取り締まりとはまた違う苦労がある
鼻先にまでつきつけられた酒が呑めない
にはいいようにからかわれる
とても平凡な苦労だが、斎藤にはこちらの方が辛い
「代わってあげようか?」
唐突な申し入れに、思わず訝しがる視線を寄越してしまった
「……あんたはこの間、自分は絶対の監視には行かないと言っていなかった
か?」
「冗談だよ」
言って、沖田は感情の読めない顔で笑う
監視には行かないと断固拒否した事が冗談だったのか
それとも、代わろうと申し出た事が冗談だったのか
沖田に問うた所で、きちんとした答えは貰えそうにない
早々に答えを諦めた斎藤は、ふとの言葉を思い出した
「まだ怒っているか。とが気にしていたぞ」
「え?」
「この間、総司が怒っていただろう?それを気にしていた」
「……あぁ、あれ」
すっかり忘れていたらしく、記憶を探っていた沖田はかぶりを振った
「別に、もう怒ってないよ。あ、でもまだ怒ってる事にしてもらおうかな?そし
たら、ずっとちゃんは僕の事気にしてくれるかな?」
「総司……」
言いながら、ため息が漏れる
流石にが不憫になってきた
「あまりをいじめてやるな」
「だって、僕はそんな手を使わないとちゃんには気にかけてもらえないじゃ
ない。一君と違って」
何故、相手に心配させてまで気にかけて欲しいのだろう
もし、沖田がの事を嫌っていれば、監視を断る理由も、怒っていないのに怒
っていると嘘をつく理由も納得出来る
けれど、普通は嫌いな相手に気にかけては欲しくないものだと斎藤は思う
もし、沖田がに好意を持っていれば気にかけて欲しい気持ちは分かる
けれど逆に監視を断る理由も怒っていると嘘をつく理由も分からなくなる
斎藤の理屈では、沖田の本心を推し量るのは不可能だった
「どうしたの?一君」
名を呼ばれ、顔を上げる
どうやら、考えに耽っていたようだ
「いや、なんでもない」
「そう?……僕はもう怒ってないから。あの時は短刀投げてごめんって伝えてお
いて」
きっと、それが素直な気持ちなのだろう
少し淋しそうに言伝をした沖田は
「じゃあ、僕今日朝食の当番だから」
そう言い残して立ち去った
沖田にとって、とは一体何のだろう?沖田の背中を見送りながら斎藤は考え
る
がまだ屯所に出入りしていたあの頃、沖田はよくの相手をしていた
けれど、が訪れなくなってからは、の名を口に出す事すら無かった
だが、一部の例外を除いて皆がの話題を意識的に避けていたようにも思う
何故が訪れなくなったのか、その理由を皆知っていたから
島原は近い
けれど島原で生きるは、遠い存在
「……」
ふう。と息を吐き出した斎藤の背中に明るい声がかかった
「よお、斎藤。どうした?ため息なんかついて」
幸せが逃げるぞ、と笑いながら続けた男へ振り返る
朝見るには珍しい顔だ
男へ向き直った斎藤は、自分より高い位置にある顔を見上げた
「佐之か。珍しいな」
「珍しいってどういう意味だよ」
「あんたがこんな朝早くから道場に来ている事が、だ」
「まぁ、たまにはいいじゃねぇか」
ニカリと原田が笑う
気まぐれでも、志は悪くない。そう思った斎藤は無言で頷いた
「で?何考え込んでたんだ?」
「……総司の事で、少し考えていた」
「総司?」
沖田の事で斎藤が頭を悩ませる理由が思いつかなかったのか
或るいは思いつき過ぎてか、原田は首を捻る
簡潔さを心掛けながら、斎藤は先ほどのやり取りを原田に説明した
理解出来ない沖田の態度を一通り説明すると、苦笑が返ってきた
「まぁなんだ……あいつは剣術以外だと妙にガキっぽい所があるからな」
沖田の態度は子どもじみているのだろうか
今度は斎藤の方が首を捻り、訳知り顔の原田が口を開いた
「ま、総司はを嫌ってるわけじゃないから安心しろ……って、斎藤にとっち
ゃ逆に安心できねぇか」
「……」
楽しそうに笑う原田を無言で睨みつける
あまり効果は無かったようで、原田は平然とした態度だった
「といえば、あいつの監視役はお前だったな?斎藤」
「そうだ」
「楽しかったか?別嬪の酌で呑む酒は格別だっただろ」
暢気な言葉に、今度こそ分かり易く渋い顔を作ってみる
原田に伝わったかは不明だったが
「俺は隊務で行っていただけだ。暢気に酒など呑めるわけがなかろう」
「呑んでねぇのか?勿体ねぇ!何しに行ったんだよ!?」
「だから、隊務だと……」
「分かった分かった、お前は真面目だからな。けど、勿体ねぇ話だな。呑まれな
かった酒は捨てられる運命なんだぜ?可哀想だと思わねぇか?」
一体何を哀れんでいるのか
絶望している様子の原田を安心させるように、斎藤は違うと首を振った
「酒はが全て呑んだ。だから、悲しむ必要はない」
「が呑んだ?……珍しいな」
原田は意外そうな声で感想を漏らす
そういえば、原田は“一部の例外”的存在で
幹部達の中では、唯一の元へ通っている人物である事を斎藤は思い出した
「普段は呑まないのか?」
「ああ、勧めたらちょっと呑む程度だ。ま、呑まなきゃやってられなかったのか
もな」
「呑まなきゃやってられない程、俺は嫌な客だったと言う事か?」
驚いて、問う
自分を監視する存在を快く思っていないのは理解出来るが
呑まなければ耐えられない程の存在だという認識は無かった
明らかに傷ついた斎藤を慰めるでもなく、原田は曖昧な笑顔を見せる
「そういう訳じゃねぇが……ある意味でそうかもな。お前だけには会いたくない
って言ってたしな」
「俺だけには……?何故だ」
斎藤の問いに、原田はため息を吐き出した後
まっすぐに斎藤を見た。真剣な色を帯びた瞳に、斎藤は僅かにたじろぐ
「なぁ斎藤、お前本当に分かんねぇのか?」
「……何を」
「がどういう目でお前を見てたか、だ。本当はちゃんと分かってんじゃねぇのか?」
「……」
が自分にどういうまなざしを向けていたか
色恋沙汰には疎い斎藤でも流石に気付いていた
始めは、剣術に対する尊敬や憧れだと思っていた
けれど、それらとは毛色の違う類のまなざしだと気付いたのはいつ頃だったか
「……知っていたとて、どうなるものでもないだろう」
言い訳のような言葉
非難するような原田の視線を避け、斎藤は言葉を続ける
「知っていたとて、俺はその気持ちに応えてやる事はできぬ」
だから、斎藤はその事実に蓋をした
の想いには、応える事も拒絶する事も斎藤には出来なかったから
「それ、どういう意味だ?」
低い、原田の声
「あいつが島原の女だからか?」
「違う、俺が剣客だからだ」
それが、本心だった
剣に生きると決めた身だ。の気持ちには応えられない
を幸せになど出来ないのだから
斎藤の本音に、原田はあっけにとられたように目を丸くし
やがて声をたてて笑い始めた
斎藤にしてみれば、真剣な言葉を笑われてしまうのは非常に不本意で
責めるように原田を睨む
「いや、悪い悪い。斎藤らし過ぎて笑っちまった」
そう言って、原田はまた笑った
早朝の道場に、その笑い声は明るく響き渡った
next
流石に斎藤さんも、自分に向けられる熱視線に気付かない程鈍くはない。
と信じているのですが……どうなんでしょう。